むとう歯科クリニックへの思い

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むとう歯科クリニックへの思い

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むとう歯科クリニックへの思い

こんにちは、むとう歯科クリニック、院長の武藤です。 数ある歯科医院の中から、当院のホームページを見て頂き、本当にありがとうございます。

知らない歯科医院へ行く時『どんな先生が診てくれるのかな?』と不安になりますよね。 むとう歯科クリニックに行ってみようかな、と思って下さったあなたの不安を、少しでも和らげることができるよう、私の生い立ちや歯科医師になった理由、この地にむとう歯科クリニックを作った理由などをお話させて頂きたいと思います。

幼少時代


1970年、ここ吹田市で大阪万博が開かれた年、 私、武藤拓也は豊中市岡町に生を受けました。 岡町には2歳の頃までいただけで、私の記憶の中には、まったく残っていません。

幼少期は千里中央で過ごしました。 ちょうど吹田市と豊中市の境に位置する千里中央公園に、カブトムシやセミを捕りに行ったり、凧上げに行ったり…とにかく外で遊ぶのが好きな子供でした。父親も、子供のように遊ぶのが好きな人で、よく一緒に遊んでくれたものです。

そんな父も、時には厳しく… 悪いことをした時には、家の外に放り出されたことも、何度もありました。 コマなしの自転車になかなか乗ることが出来ず、ベソを掻きながら「コマなし自転車なんか乗れんでもいい」と言っていた私を、父は決して許してくれず、練習を続けさせられたこともありました。 こけて膝を擦り剥き、涙を流しながらも、何とかふらふらとコマなし自転車に乗ることができた時の感動は、今でも忘れられません。 辛いことがあっても、何かを成し遂げるまでは決して諦めてはいけない、一生懸命頑張った末に手に入れたものには感動がある、といった事を教えられました。 そんな、スパルタな面もありながらも、基本的には優しく、深い愛情を持って、育ててくれました。

中学・高校時代

中学生になり、祖父母の住んでいた豊中市柴原町へ引っ越し、同居することになりました。 中学生の時は、勉強でも、運動でも、あまり目立つこともなく地味な生徒でした。何となく3年を過ごし、憧れだった豊中高校に無事、合格。

でも、憧れの豊中高校は思っていたのとは違っていました。みんな、妙に硬く、面白みに欠ける気がしました。あまり真面目ではない友達と仲良くなり、学校もサボりがちに。ロックにのめり込みバンドを組んで、本気でやりたいから学校を辞めたいと先生に言いに行ったこともありました(今思えばとても人前で披露できるような代物ではなかったのですが…)

そんな時にも、両親は厳しくはありましたが、私の事を温かく見守ってくれていました。

いよいよ、高校卒業。卒業式にも出ないくらい、ひねくれていた私ですが、すぐに働く気もしませんでした。かといって、高校時代は遊び呆けていたため、受かる大学なんてありません。結局、一年間、予備校へ通うこととなりました(今となっては、本当に両親に悪いことをしたと思っています)。

予備校生時代

父は大阪市内で開業をしている歯科医師。 でも、私の頭の中には、父の跡を継ぐ、という選択肢は全くありませんでした。親の跡を継ぐなんて、自分がない。敷かれたレールの上を進むだけの人生なんて…と思っていました。成績も悲惨だったので、そんなこと考える余地もなかった、というのも理由の一つなのですが…

1年の予備校生活。 7つ受けた私立文系大学の内、ただ一つ、関西学院大学法学部法律学科に合格しました。実は、合格発表の日は、大好きなローリング・ストーンズの初来日公演のチケット発売日。(30年近く来日しなかったストーンズ来日が遂に実現!!この感動は伝わらないか…(涙))合格発表そっちのけで、チケットを取るべく公衆電話にしがみついていました。

そんな訳で、無事、チケット、入手!!…ではなくて、関学合格(ちなみにチケットも取れました、これまで生きてきた中で最高の一日でした(^^))。

関学時代

とにかく、ひたすら楽しい大学生活。バイトをして、飲み歩いて、試験前だけ、ちょろっと勉強をして。法律の知識はまるで付きませんでしたが、今もつながりのある幅広い交友関係を築く事ができ、人生勉強が出来たと思っています。

サラリーマン時代

そして、就職。親の跡を継ぐのは自分の意思がない、なんて恰好のいいことを言っていた私ですが、特にやりたいことがあった訳でも、大学で学んだ法律の知識を活かすわけでもなく、たまたま受かっただけの建築関係の仕事に就きました。一部上場企業だし、まあ、いいんじゃないかという軽い気持ちでした。

1年間、研修として富山県の寮での生活。工場での研修が主でした。仕事自体は特に面白いとか、やりがいがあったとか言う訳でもなく、社会人になったから、働くのが当たり前だ、という感覚で働いていました。それよりも、寮での生活が、まるで学生時代の延長のようで、とても楽しかったことが印象的です。研修なので、5時ちょうどに仕事は終わり、それから車を飛ばしてスノーボードをしに行ったり、休みの日にはキャンプに行ったり。何もない日には毎日、みんなの部屋で宴会でした。

楽しい、楽しい研修期間を経て、大阪へ配属。営業マン生活の始まりです。 当時はちょうど、バブルが弾けた後。建築業界は悲惨な状況でした。建材もそんなに売れるはずもなく、建築現場へ行っては、「もっとまけろ」「早く持って来い」と恐ろしげな現場監督に無理ばっかり言われます。会社へ帰ってくると、仕事を取れなければもちろん怒られる。取ってきても、時はバブル崩壊直後、「そんな安い仕事取って来るな!」と怒られます。無理をして安く、無茶な納期で建材を納めても、現場監督からは「ありがとう」の一言もありません。

それでも、最初の頃はいっぱい売ろう、と意欲に燃えていましたし、自分が係わったビルを見ては誇らしい気持ちにもなっていました。

そして、名古屋へ転勤。仕事を始めて、どんなことがあっても、絶対に3年は続けよう、と思っていた私ですが、ついに、そんな何をやっても怒られ、認められない生活に嫌気がさしてきました。上司を見ても、何だかあまり楽しそうじゃありません。みんな、週末やアフターファイブを楽しみに、嫌々働いているように見えます。

自分に課した期限、3年が過ぎた辺りから、「一生この仕事をするのか?」と自問するようになり、「人に喜ばれる仕事がしたい。」という想いが強くなってきました。

だからと言って、具体的に何をしたい、という訳でもなく、ひたすら週末を楽しみに嫌々働いていました。

そんなある日、ふと父親がしていた、歯科医師、という仕事を思い出しました。 広島に引っ越したけど、入れ歯の調整はやっぱり父親にして貰いたい、とわざわざ大阪まで来てくれるおばあちゃん。おいしく食べられるようになった事を涙を流して喜ぶ患者様。少しガラの悪いお兄さんも嬉しそうに、父に礼を言っていました。

これだ!と思いました。

高校を卒業する頃には、親の跡を継ぐなんて…と思っていましたが、自分が実際に仕事をするようになって距離を置いて見た時、“歯科医師”という仕事がとても輝いて見えました。

こうなったら、善は急げです。

本屋へ行き、父の卒業した大阪歯科大学の試験問題集を買いました。受験勉強なんて7年も前の話。当然、問題集を見ても、さっぱり分かりません。でも、受験科目は3教科。1年あれば何とかできる、と根拠もなく確信しました。

それから数日、悩んだ後、父親に電話をして、「仕事を辞めて、跡を継いでもいいか?」と聞くと、了承してくれました。あまり感情を表に出すタイプではない父親でしたが、心なしか嬉しそうに感じました。

会社へは辞表を提出。3年8ヶ月で辞める事となりました。

予備校時代 part2

そこからは順調に…といきたい所ですが、世の中そんなに甘くありません。

仕事を辞めて、名古屋から実家のある大阪へ帰ってみると、両親が深刻な顔をして、大阪歯科大学へ行くには、6年で数千万単位のお金が掛かる、と言います。そんな額、とてもじゃないけど用意ができません。

完全な認識不足。調査不足です。自分の甘さを痛感しました。もう仕事も辞めてきたのに、どうしよう。頭の中が真っ白になりました。

路頭に迷う日々。そんなある日、今でも付き合いのある会社時代の友人、K君が「仕事で私の家の近くに来ている。直帰にするから一緒に飲もう。」と電話をしてきました。

今、目の前の道が閉ざされ、自分の将来について迷っていることを打ち明けると、K君は、いとも簡単に「国公立受ければいいやん。」と言います。「国公立って…受験科目、7教科もあんねんぞ、できるわけないやん。」という私。

何も解決しないまま、その日は別れました。でも、それから数日、K君の「国公立受ければいいやん。」という言葉が心の隅に引っ掛かっていました。

どうせ、会社も辞めたし、一年だけやってみるか。一年やってダメだったら、他の仕事を考えよう。と思うようになりました。

予備校に入学手続きをして、一年間の受験生生活をしようとしていた矢先にまたもやトラブルです。家にいた時、突然、胸が尋常じゃあないくらい痛みました。身動きが取れないくらいの胸の痛み。でも、ちょうど連休中で、病院はどこも閉まっていました。まぁ、肋間神経痛だろう、というくらいの軽い気持ちで、連休明けにでも病院に行こう、と思っていました。連休が明ける頃には、ほとんど痛みも無くなり、念のためという位の気持ちで町の内科へ行きました。自分で原付きに乗って行ったくらいです。

病院で胸部レントゲンを撮り、先生の言った一言「すぐに入院せなあかんわ。」

症状はすっかり治まっていたので、訳が分かりませんでした。 診断は右肺の血気胸。肺に穴があき、萎んでしまっている。そして、胸腔内に血液が溜まっている、というのです。 それでも、まだ事の重大さが分かっていない私は、入院に備えて、本やCD、そして病院にはあまり売っていないだろう、と思い、大量のタバコを買い込み、ちょっとした旅行気分で近くの大きな病院へ行きました。

胸腔に溜まった血を抜くためのドレーンを右脇下の辺りから挿入され、一晩を過ごした翌日、緊急手術が行なわれました。それでもまだ余裕のあった私は、全身麻酔で薄れゆく意識の中、オペ室の無影灯を見て、ドラマみたいだな、と思っていました。

意識が回復した時には、ICUの中でした。

当時、1日最低2箱は吸うヘビースモーカーだった私は、これを期にタバコを止めました。医療の仕事につく為にはタバコは当然、吸っていない方がいいに決まっています。当時はまるで禁煙をするつもりなど無かった私ですから、何か運命のようにも感じます。

仕事を辞め、受験生となるまでに、一波乱も二波乱もありましたが、いよいよ予備校へ。

試験では、約10年前の記憶は全く残っておらず、悲惨な成績でした。 今回の受験で新たに学び始める科目もあります。 目標がはっきりしているので、朝から晩までひたすら受験勉強を続けることは苦になりませんでしたが、あまりにも成績が上がってこないので、挫折しそうになることは何度もありました。

それでも、頑張り続けている内に除々に成績は上がってきました。 受験を直前に迎える頃には、医歯薬系の上のクラスには上がれませんでしたが、国公立理系の下のクラスの中ではそこそこの順位になっていました。

経済的な理由から実家のすぐ近所の大阪大学を目指していた私ですが、とてもじゃないけど手が届きそうもなく断念。岡山大学ならうまくいけば…という模試の判定。センター試験の結果、かなりリスクは高いけど、一か八か岡山大学を受けてみる事にしました。

岡大時代

合格発表の日。 前回は発表そっちのけだった私も、今回はドキドキ。人生が掛っています。 送られてきた通知書の封を開くと、そこには… “合格”の二文字が!

入学後は、ずっと年下の友人達について行くのは大変でしたが、頑張った末にやっと入れた歯学部という思いが強く、勉強の方も頑張れました。目標をしっかりと定めることの大切さを予備校から岡大生活を通して、身をもって学びました。

その頃、腎臓を患い、何年もの間、人工透析をしていた父の体調は思わしくなく、仕事も休みがちになっていました。何とか歯科医師への道を進んだ私に自分の医院を残そうと頑張ってくれていた父ですが、私が4回生の時、遂に限界がきました。

申し訳なさそうに、「医院を閉める」という父に私は何と声を掛けていいか分かりませんでした。

勤務医・パートナー医院長時代

岡山大学卒業後は近鉄奈良線 河内花園駅にあるヨリタ歯科クリニックに就職しました。寄田先生は私の岡山大学の先輩です。

治療技術のみならず、患者様の想いを引き出す事、患者様に本当に満足していただける治療をする事の重要さや、チームワークの大切さを学びました。寄田先生は、その道のエキスパート。歯科医院のみならず、一般企業からも講演の依頼がきたり、日本全国の歯科医院から見学に来るほど。そんな寄田先生の下で私は厳しくも愛情を持って育てられました。

ヨリタ歯科クリニック勤務からわずか1年4ヶ月。私は第一号のパートナー医院、奈良県生駒市のゆめはんな歯科クリニックを任せられることになりました。

治療技術も経営能力も全然未熟な私でしたが、早い時期に一つの歯科医院を院長として任されることで、ものすごく多くのものを学びました。

ゆめはんな歯科クリニックオープン前の内覧会の時には、父も体調が思わしくない中、生駒まではるばる、杖をついて見に来てくれました。

父との別れ

半年後、父は帰らぬ人となりました。

 一人前、とまでは言えませんが、父親の仕事を継ぎ、一つの医院を任せられるようになった姿を見せることができて良かった。でも、歯科医師として父親に胸を張って見せられるような仕事はまだまだ出来ていない。…複雑な心境でした。

今でも、『父親に見せられるような診療をしよう』と言う気持ちを常に心に持っています。

そんな私も、その後、結婚。 二人の息子を授かることとなり、寡黙だった父の気持がより理解できるようになったのではないか、と思っています。

むとう歯科クリニック

私が勤務していたヨリタ歯科は、「来院される患者様に感動を与え続ける」「来院者、チームメンバー、取引先から感謝の言葉があふれる」「ワクワク楽しい」そんな今までにない歯科医院を作ろうとしています。

ただ単に歯を治すだけでなく、来院するだけで元気になるような歯科医院。予約日が楽しみになるような歯科医院。笑顔でいっぱいの歯科医院。「ありがとう」の言葉があふれる歯科医院。

職人肌だった父親の医院しか知らなかった私にとって、これは本当に衝撃的でした。というより、世間一般の歯科医院のネガティブなイメージとは対極のようなヨリタ歯科で学び、そんな歯科医院を私が生まれ育った、この北摂の地にも作りたい、父親に二代目武藤歯科で歯科医院のそんな新たなステージを見てもらいたい。

だから、名前にも“むとう歯科”という父親の武藤歯科からの流れと“歯科クリニック”という、ワクワク楽しいヨリタ歯科クリニックからの流れを取り入れました。 そして、電話番号の下4ケタは父が使っていた“0648(ゼロむし歯)”にこだわりました。

そんな強い想いで、この地に、むとう歯科クリニックを開設するに至ったのです。

来院者の皆様に、心から愛される歯科医院を作るべく、日々、努力していきます。 そして、いつでも天国にいる父に胸を張って見せられるような歯科医院であり続けたい、と思っています。

最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。 それでは、お会いできる日を楽しみにしています。


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